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クラシカルJ-POP

 夜明けが遅くなってきて、早起きが徐々に辛くなってきました。でも、犬たちはそんなこと全くお構いなしに、朝5時半前にはぼくの顔を濡れた鼻でつつき、起こしに来ます。彼らに備わっている生体時計の正確さには脱帽です。

 先日、大学生となって仙台を離れて行った息子の部屋に何の気なしに入ってみました。主人のいない部屋はがらんとして寂しいものでしたが、行く先が決まらずに浪人を繰り返しているよりはずっと幸せだなと考え直しました。本棚に残されたCDを眺めつつ、そのほとんどが知らないアーティストのものであることに愕然としました。

 今回はそのあたりにヒントをもらってエッセイを書いてみました。


 言われるままに聞き流してきたが、サッパリ上達せず、宣伝で言うようにある日突然聞き取れるようにもならない語学CDを諦めて、最近通勤の車中では専らクラシック音楽を流している。白状するが、学会の会場で流暢な英語で質問する日本人研究者に憧れて、ぼくもかく在りたいと強く願い、そのつど翌日から語学の勉強に取り組むのが常であった。
でもこればかりは才能もさることながら、留学などでやむにやまれぬ状況に追い込まれない限り絶対上達しないだろうなあと最近は諦めている。第一ぼくには発表する学術研究が無い訳で、英語が出来ても「言語明瞭、中身無し」の発表になりかねない。加えて最近読んだ政治学者、施光恒(せ てるひさ)氏の「英語化は愚民化-日本の国力が地に落ちる-」に大いに触発され、ぼくは細々と続けてきた英語の勉強を思い切って止めることにした。日本語は相手の立場に応じて一人称が変わる。「私」「僕」「俺」「小生」等など。つまり日本人は相手に合わせて自らの立ち位置や主張を微妙に調節することに長けている。それが謙譲の美徳を構成する大きな要因だ。一方英語はどんなときにも一人称は「I」の一つだけ。つまり、まずは確固たる自分があり、相手の立場の如何に関わらず、まずは自分の主張を述べる。当然軋轢が生じるが、そこに登場するのが公正、平等といった概念だ。日本の公共事業などへの海外メーカーの参入には「日本語」という大きな非関税障壁があり、そのような不平等は排除すべきであるといったような、いわば「悪平等」とでも言いたくなるような主張を平気で行う彼らのことも、この考え方である程度納得がいく。その他今日本にノーベル賞受賞者が相次いでいるのは、日本が優れた翻訳文化を誇るからであり、つまりは外国語の教科書を翻訳する力に長けていたことに負うところが大きいとの指摘にも大いに納得した。英語を母国語としない学生が英語のテキストを用いて英語のみの授業に臨んだ場合、ごく一部のスーパー学生以外は授業の内容を理解するまでに膨大な時間を要し、そのような状態では知識の取得、応用までに何十年という時が流れてしまい、恐らくノーベル賞級の研究者が育つ可能性は今よりもずっと少なくなるであろうとの指摘には説得力がある。その他実に刺激的な本であるので、興味のある向き、特にぼくのように英語コンプレックスを抱える諸兄にはお勧めの本である。
 おっと、のっけから大きく脱線してしまった。クラシック音楽のことを書くつもりであった。運転中にクラシック音楽を流すことにはいくつか効用がある。まずはリラックス効果。渋滞に巻き込まれようが、割り込まれようがムッとせずに済む。ショパンのピアノ協奏曲でも流しておけば、何だか優雅な気分になって、「お先にどうぞ。わたしはゆっくりゆったり行きますから。」とでもなるものだ。眠くなるのではとの危惧も杞憂に終わる。クラシックはけっこう音圧というか、クレッシェンド、ピアニシモからフォルテなど変化に富む。だから、丁度眠くなってきた頃にオーケストラが「ジャジャーン」と鳴ったりするとすぐに目が覚める。今は専らリヒャルト・ヴァーグナー(1813~1883)のオペラを流しているのだが、これは眠くなる余地があまりなくて重宝している。難が在るとすればドイツ語がよく判らんことで、さあ今度は英語を止めてドイツ語を勉強し直そうかと思う次第。
 先日FMでリヒャルト・シュトラウス(1864~1949)の交響詩「ドン・キホーテ」が流れていたのだが、その解説者がたいへん面白い話をしてくれたので、ここに再掲したい。リヒャルト・シュトラウスのお父さんはホルン奏者で、ヴァーグナーのことが大嫌いだったとか。どうやらお父さんにしてみると、正統派の古典はルードヴィヒ・ヴァン・ベートーベン(1770~1827)やヨハネス・ブラームス(1833~1897)であって、ヴァーグナーの作品は、あたかもかつて多くの親たちが眉をひそめたハードロックのような理解不能のものだったらしい。だから息子にはベートーベンらの作品を学んで欲しかったようだ。一方息子のリヒャルトはヴァーグナーに傾倒し、父親に隠れてヴァーグナーの楽曲スコアを読み耽っていたとか。この話を聞きながら、ふと中学生の頃「ザ・ベストテン」を観ていて「今週のスポットライト」というコーナーで初めてサザンオールスターズを知り、以後聴き捲っていた時に親父が見せた不機嫌そうな顔を思い出した。「一体何を歌っているのか、さっぱり判らんな。うるさい。」と切って捨てた親父。そういえば年末の「紅白歌合戦」でも、「最近は知らない歌ばかりでつまらんなあ」と呟いていた。当時親父が好んで聴いていたのは越路吹雪やハイ・ファイ・セット。まあ確かに詩が明瞭で判りやすいものね。当時、なんで「アリス」の良さが親父に伝わらないのか、サザンのかっこ良さがわからんのか不思議だったが、今FMで流れている「AKB48」やら「きゃりーぱみゅぱみゅ」を理解しろといわれても、ぼくには無理なわけで。紅白歌合戦もとっくの昔に観なくなったしね。つまり、時がどんなに流れても、どの世でも同じような親子のやり取りが繰り返されるということだ。
 あと100年もすればサザンもドリカムもユーミンも、みなクラシックということになるのかな。もしかしたら「クラシカルJ-POP」なんて呼ばれるジャンルが出来ていたりするのかもしれないね。