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完全無欠のオリジナルはあり得るか?

 猛暑の後は長い秋雨が続き、鬱陶しい日々が続きます。そろそろカラッと晴れた、澄んだ空気と高い青空が恋しくなってきました。
 すっきりとしないのは天候ばかりではなく、昨今の世の中も同様ですね。2020年東京オリンピック、本当に開催できるのでしょうか。新国立競技場のみならず、公認エンブレムの問題など、今後もまだまだ紆余曲折がありそうです。

 今回はそのエンブレム問題について考えてみました。

 なにかと話題に事欠かない2020年東京オリンピックだが、今問題にされているエンブレムの模倣問題について少し考えてみた。
 アートディレクターS氏デザインのエンブレムとベルギーにあるリエージュ劇場のロゴを見比べてみれば、確かによく似ている。更に次々と明らかにされるS氏デザイン事務所の既存作品とその元になったとされるデザインとの類似点を見るにつけ、模倣だと言われても仕方がないのかなとも思う。その一方で、ネット上に展開される激しい非難、中傷とも受け取られかねない過激な言説を読みながら、人が創り上げる様々なもの、ロゴマークに限らず、建築、小説や論説、料理から洋服まで、ありとあらゆるものに果たして完全無欠なオリジナリティーというものが存在するのか否かにふと疑問を持ってしまった。
 美大で勉強する学生が名作を模写することは絵画の腕を磨く上で欠かせないことだと思うし、模写が今後彼らの描く作品に少なからず影響を及ぼして当然だろう。もっと身近な例を引けば、ぼくが今書いている文章のスタイルや表現の多くは、今までぼくが読んできた数々の本から影響を色濃く受けているはずだ。人が自分オリジナルなものだと信じて疑わない作品や考え方の多くは、厳密にその元を辿っていくと数多くの参照物件あるいは文献に基づいているということがわかる。そのように考えてくると、美術、文学から思想に至る、およそ人間の成すこと全てにおいて、模倣がその原点ではないかとも思えてくるのだ。
 真に美しいものや真実というものは、その形、表現を微妙に変えつつ、換言すれば際限の無い模倣を繰り返しながら後世に伝えられていくものなのではないか。もしそうだとすれば模倣されるということは、その考えや作品に何かかしら真実ないしは共感があって、時を越えて受け継がれる可能性を秘めている証なのかもしれない。近代になって生まれた、金銭と密接に関わる著作権というものがあまりにも厳密に声高に訴えられると、大切なものの後世へのリレーや進化がうまくいかなくなるのではと微かに危惧するのだが、大袈裟であろうか。
 誤解を招かないように申し添えるが、S氏を擁護するつもりは毛頭無い。数多くの若手デザイナーが日々弛まぬ努力と精進の末、創意工夫を重ねてその作品を世に問うている。気の遠くなるような試作、改良作業の末に漸く生み出された作品でも、世に認められるのはごく僅かであろう。やむなく道を諦めて業界から失意と共に去っていく者も少なくないはずだ。そんな厳しい世界にあって独立し、自分の事務所を持つことが出来たS氏は間違いなくエリートであり、数多くの後進達の範たるべき存在である。その彼が忙しさやその他諸々理由があったにせよ、単純な模倣を疑われるような仕事を少なからずしていたとすれば、彼を尊敬して頑張っている後進達へ大変失礼であり、脇が甘いとしか言いようが無い。しかし、そうだからといってS氏の今までの業績を全て否定するような根拠に乏しい乱暴な言説は誹謗中傷の類に属し、決して許されるべきではないと思う。今S氏の事務所が担当したデザインの数々にコピーやトレースの疑いがかけられ、ネット上ではあれもこれもと、まるで重箱の隅をつつくような状態になっているのがとても残念だ。何の関係も無い彼の家族や知人にまで嫌がらせが相次いでいるという現状は決して看過することができないと思う。今回S氏の模倣を指弾し、匿名で言いたい放題の非難を浴びせる人たちに問いたい。S氏のものと似ているデザインを血眼になって探し出し、匿名でネットにアップして溜飲を下げるというあなたのその行為も、単なる他人の模倣行動に過ぎず、全く生産的でないばかりか、たいへんレベルの低い、品の無いものとぼくには思えてならないのだが如何であろうか。