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レクイエム

 蒸し暑い日々が続いています。今年は梅雨の間に台風がいくつか日本を襲い、被害が出ています。各地で水の事故も相次ぎ、その一つで大切な友人が逝ってしまいました。数年前に引き続き、こんなに早く二人も友人を失うとは思ってもいませんでした。彼に捧げる追悼文を書きました。


 日曜日の昼下がり、昼食後の眠気に耐え切れずにうたた寝をしていると、携帯電話が鳴った。登録していない電話番号だったので一瞬躊躇したが、応答してみたら友人の奥さんからだった。「ご無沙汰しています。夫が亡くなりました。」寝ぼけた頭には一瞬何のことかわからず、「はい。」とだけ答える。しばしの沈黙の後、ゆっくりと霧が晴れるように言葉の意味が理解され始めた。「ええ!なんで?」ほぼ絶叫に近かったとおもう。その後のことはあまり覚えていない。よほど動揺、混乱していたのだろう。それでも、どうやら海で何かが起こったらしいということだけはわかった。ダイビングを趣味にしていた友人だから、潜水中のアクシデントかと暗澹たる気持ちでテレビに見入ると、トライアスロン大会の水泳競技中に起こった事故だということがわかった。当日リレー部門にエントリーしていた友人は得意の水泳を生かしてスイムを担当、750メートルのコースを1週泳ぎ終わったところで何かが起こったようだ。様子がおかしいことに気付いた奥さんが助けを求め、友人は間もなく救助艇に引き上げられたが、既に心肺停止状態であったとのこと。
 一体全体何が起こったのか。学生時代は水泳部にも所属していた泳ぎの達者な彼が、そう簡単に溺れるはずが無い。それはさておき、何故現場の監視員が異変に気付かず、奥さんからの救助要請を受けてから動き出すなどということになるのだ。明らかに救護体制の不備ではないのかと強い憤りを覚えた。
 翌日仙台在住の同級生と連れ立って彼に会いに出かけた。2年半前に新築されたモダンで落ち着いたクリニックの隣にある彼の実家。その一室に静かに横たわった彼が居た。信じたくはなかったが、彼の額に手を当ててその冷たさを実感し、本当に彼が逝ってしまったことを嫌でも納得せざるを得なかった。
 連休明けから筆舌に尽くしがたい喪失感と虚無感に耐えながらも何とか外来診療をこなし、それでも少し冷静になってトライアスロン中の死亡事故について調べてみた。トライアスロン大会では毎年のように死亡事故があるが、その大半はスイム中に起こり、自転車競技中あるいはランニング中の事故よりも明らかに多い。事故者に共通することは、疲れ切ったような緩慢な泳ぎをしているうちに顔面を水面に突っ伏してうつぶせに水面に浮くという事象のようだ。どのケースも救助までにそれ程時間を要していないにも拘らず、救助艇に引き上げられた時には既に心肺停止状態であったとのこと。複数の救助艇に加えてダイバーも配置して対処しても、事故を完全には防ぎきれないことを知り、救護体制の怠慢ではと誤解した自分を恥じた。プールと異なり、海は海流の変化で水温の変動が大きく、その温度変化が不整脈などの心臓発作を惹起しやすい。きつすぎるウェットスーツによる胸部腹部の圧迫も反射的な徐脈を来たす恐れがある。また海水を鼻から吸い込んでしまうと耳管に詰まり、嚥下運動と相俟って鼓室内の圧力が上昇、引き続いて錐体内出血を来たして急性平衡機能障害を起こす可能性があるという。水中で平衡感覚を失えば、足が立つほどの浅瀬でも溺水してしまう可能性は高くなるということらしい。  
 循環器内科を専門とする彼のことだから、運動中の不整脈に代表される急性の心疾患に関しては十分に理解していたはずだ。唯一つ気になる情報は、今回が彼にとって初のトライアスロン大会であったこと、そして新調したウェットスーツを着て初めてのスイムであったということだ。いつもの彼であればプールや海で幾度か試着、練習してから本番に臨んだことだろうが、クリニックが軌道に乗って忙しい日々を送る中、なかなか時間が作れなかったのだろう。元々水泳が得意な彼のことだから、もしかしたら少し油断があったのかもしれない。残念ながら、そこに魔の手が及んだということか。
 遺された三人の娘さんたちは気丈にも母を支えて頑張って生きていくと話しているそうだ。彼女たちは自分のことよりも、父が主治医として診ていた患者さんたちの行く末を案じているという。父は患者さんたちを守らなければならない立場にいることをきちんと理解していたのかに疑問を呈し、遺された患者さんたちに申し訳ないと話しているという。その上で三人それぞれ、これから医師を目指して頑張ると決意を表明してくれたことがせめてもの救いである。
 彼が荼毘に付された日の夜、仙台は稲光が走り、雷鳴が轟いていた。ぼくには彼が声を振り絞って叫んでいるように思えた。「ゴメン。こんなはずじゃなかったんだ。後のことは頼む。頼むぞ。」大事な友よ、大丈夫だ。僕ら同級生の結束は固い。皆きっと力を貸してくれる。そしてぼくらには夫婦ぐるみで付き合いを始めたこの数年間の積み重ねがある。ぼくら夫婦は君の娘たちを見守っていく。安心してゆっくり眠ってくれ。