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聴診は臨床医の武器である

 先日の休診日は院内の工事のためにほぼ一日クリニックに詰めていました。夕方マラソンの練習を兼ねて走って家まで帰りましたが、途中で見事な麦畑を眺めて一休みしました。「麦秋」という季語を初めて父から教わったのは、もう何十年も前の初夏でした。最近ではすっかり恍惚の人となり、麦秋ではなく人生の晩秋を迎えている父に対して、何もしてあげられない寂しさを最近ひしひしと感じています。それでもその時が来たら、やはり父の胸に聴診器を当てて「大丈夫だよ。ゆっくり休んでね。」と言ってあげたいと常々思うのでした。

 さて先日書き下ろしたエッセイには実は前編というべきか、たたき台となった文章がありました。もう10年近く前のもので、文章も稚拙で恥ずかしいのですが、そのままアップします。


 私は糖尿病を専門としてきたから、今まで数多くの病院で糖尿病外来を担当してきた。糖尿病は今や国民病だから、どの病院にも患者さんが溢れており、未だに三時間待ちの三分診療が当たり前、場合によっては顔を一瞥しただけでおしまいということもあり得る。食生活や運動習慣といった個人のライフスタイルに介入しなければ改善が望めない疾患だけに、本来一人ひとりの患者さんに十分な時間を割いて臨みたいのが本音である。しかし一方で病院が糖尿病専門医へ望むことは第一にスピードであり、言葉は悪いが、いかに大勢の患者をさばけるかでその医師への評価がある程度決まってしまう。まだ駆け出しであった十数年前、私も外来のスピードにこだわった時期があった。血圧は自動血圧計であらかじめ測定してもらい、診察室に患者さんを呼び入れるやいなや、「変わりは無いですね?」の一言。患者さんが何か話したそうにしていたとしても、「検査値に変動は見られません。この調子で続けてください。それではいつものお薬を出しておきます。」こんな調子だから、確かに外来の進行は早い。外来を終えて早く医局へ上がれば、評価も上がる。こんな具合で良いのかなあと何となく心にわだかまりを感じながらも、それ以上は深く考えずに外来を淡々とこなす日々だった。
 ある春の日の外来でのお話である。午前の診療も終わりに近づき、診察室の窓の外に新緑が萌える風景を眺めながら、今日の昼食は何にしようかなどと、不埒なことを考えていた。最後の患者さんは初老のご婦人であった。経過の長い糖尿病で、今まで幾度か悪化もしたが、最近は落ちついており合併症も無い。楽勝だ。さっさと片付けて、今日の昼は少し奮発してカツカレーでも食べよう。そんな不謹慎なことを考えながら、私は何気なく聴診器を手に取った。実は外来のスピードアップのために、胸部の聴診はとっくの昔に省いていた。だがこの時は手に取ってしまった成り行きで聴診をした。ご婦人は驚いた顔を見せ、次いで笑顔で話された。「私はこの外来にもうずいぶん長く通っていますけれど、聴診して頂いたのは先生が初めてでした。」その後、我々医師の使う用語がいかに難しいか、訊きたいことは沢山あるのだけれども、いつも言いだせずに終わってしまうことなど、次から次へと堰を切ったように話された。時間にすれば十数分のことであったと思うが、その後夫人は満面の笑みを浮かべて診察室を後にされた。
 この日を境に、私は胸部の聴診を外来診療に復活させた。確かに時間を要するし、同僚から何の胸部症状も無い患者さんを一律に聴診することの意味を問われることもあった。それだけではない。「この時代に聴診ですか?もっと他の最新式なやつで検査してくださいよ。」と患者さんに言われたこともあった。もちろんご要望になるべく沿った形で検査も行い、新しい機械が導入されれば積極的に試してみた。しかしいくら検査を重ねても、決して満たされない何かがあることに気が付いた。体調不良を訴えている患者さんを前に、ありとあらゆる検査データを提示して異常が無いことを力説してもまず満足は得られない。検査が正常だからといっても、実際に具合が悪いのだから仕方が無いのである。こんな時検査至上主義に陥りつつある現代医療は更なる検査に向かうが、実は患者さんが求めているのは検査の正常値ではなく、自分への共感や励ましではないのか。具合が悪いということを認めて欲しい。大丈夫だよと言って欲しい。実はそんな声にならない心の呟きを聴き取るには聴診が最適なのだとこの頃思う。
 ゆっくり聴診してから、「大丈夫ですよ」と声をかけてあげることのみで元気を取り戻して帰られる患者さんが東部休日診療所にも少なくない。聴診は臨床医の大きな武器である。

         「東人会誌」2006年第11号(35周年記念号)