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ぼくが聴診器で聴き取っていること

 今日は風が強いですが、湿度が低くて爽やかです。休診日なのでゆっくりとエッセイを書くことが出来ました。医師のシンボルと言えば額帯鏡と聴診器ですね。ぼくは額帯鏡を使うことはありませんが、聴診器のヘビーユーザーです。聴診器に対する思い入れをテーマに選んでみました。

 ぼくは診察時、基本的に全例で胸部の聴診をすることにしています。時々他院から転院してこられた方などは特に、ぼくが聴診器を手に取るとびっくりした表情を浮かべられることがあるのですが、実はこの「聴診」、今でも決して捨てたものではないのです。今回はその辺りのことを書いてみます。
 さてまずは聴診器で聴いて、何が判るのかという問いに対して簡略に答えてみたいと思います。聴診器では大きく分けて二つの所見を聴き取ります。一つは「異常な音」です。これは通常「雑音」と表現されます。心臓の音を形容して、「ドッキン、ドッキン」あるいは「ドックン、ドックン」と書かれますが、例えば心臓の弁に狭窄があったりすると「ザーッザーッ」と聞こえたりするわけです。あるいは呼吸の音では、呼気時に「ヒューヒュー」と笛のような音を聴けば気管支喘息を、あるいは吸気時に「バリバリ」と聴き取れば「間質性肺炎」や「肺線維症」を思い浮かべることが出来ます。昔の内科医はこれらの雑音パターンを何通りも記憶していて、特別な検査などせずとも聴診器一つでかなり精度良く多くの病気を診断しました。ぼくを含めた現代の内科医とは比べ物にならない職人技を有していたということですね。残念ながらその技の多くは各種検査に押され、後進に伝承されることなく廃れていく運命です。
 聴診器で聴き取るもう一つの大切な所見は、「聞こえるべき音が聴き取れない」ということです。つまり正常な音が聞こえない時に病気を疑うのです。たとえば右肺に比べて極端に左肺の呼吸音が低ければ「気胸」や進行した「肺癌」を疑いますし、深呼吸してもらっても両方の肺で呼吸音が弱ければ、「慢性閉塞性肺疾患(タバコ肺などとも呼ばれます)」が頭に浮かびます。頸動脈の部位に雑音が聞かれたら動脈硬化による狭窄を疑い、あるいはお腹の音(ぜん動音)が極端に低下していれば、腸閉塞を疑ったりします。
 「聴診」に限らず、顔の浮腫みや喉の腫れ、顔色を観る「視診」も大切です。高度の貧血や黄疸は患者さんに向き合った瞬間に判りますし、じん麻疹やアトピー性皮膚炎も一目瞭然。今流行しているパルボウイルス感染症(リンゴ病)も、その特徴的な皮膚所見を覚えておくと一目ですぐに診断することが出来ます。「視診」と並行して行う「触診」で甲状腺の腫脹やしっとりと湿った皮膚の所見を得て、更に脈が速いことを確認すれば甲状腺機能亢進症(バセドウ病)は容易に想像できますし、逆に何となくボーっとした顔つきと体全体の浮腫みや乾燥肌を観て取ることが出来れば、甲状腺機能低下症も容易く見つけることが出来ます。加えて口臭や呼気の臭いなども合わせて吟味すると、診察だけでかなりのところまで疾患を煮詰めることが出来るのです。
 それでも多くの方々は次のような疑問を抱くでしょう。「日進月歩の医学なのに、今でも聴診や触診なんて必要なの?もっと最先端の方法で客観的に診てちょうだいよ。」つい先日も聴診器を見つめつつ、「センセ、それで聴いて何か判るの?」とある患者さんが悪戯っぽい目つきで問いかけてきました。この患者さんの質問をわかりやすく翻訳すれば、「進歩が著しいこの時代にあって、聴診なんていう旧態依然とした診察方法を続ける意味があるの?」というふうにでもなるでしょうか。それに対してぼくは自信を持って答えます、「はい、意味は大いにあるのです。」と。確かに現代は種々の検査機器が進歩していて、当院のような小規模のクリニックですらかなりのレベルまで検査が可能になっています。ですから咳の訴えにはすぐ胸部写真、採血と肺機能検査を、胸痛の訴えには心電図、腹痛だったら腹部写真と腹部エコーというようなマニュアルを作り、全例で検査を行う診療の在り方も十分可能です。というよりも、そこまできちんと検査しないとなかなか各方面にご満足いただけないのが最近の実情です。特にぼくの手に負えないケースで、大きな病院へ紹介のために電話をかけた時など、担当の若いドクターから「検査はきちんとしましたか?あれはどうでしたか?これはやりましたか?」と矢継ぎ早に質問を受けることが決して稀ではありません。その都度「いや、まだ詳しくは検査していませんが、聴診上疑わしいし、何となく変なのでお願いしたいと思います。」などと答えようものなら、フンと鼻で笑われること必定です。俄かには信じ難いかもしれませんが、最近の若いドクターは本当に皆そうなのですよ。自らの診察所見よりも検査結果が大切で、「何となくおかしい」という白黒はっきりと定義できない曖昧とした第六感のようなものは極力排除される風潮があります。陽性か陰性か峻別出来ない、換言すれば明確に数値化できない「勘」などというものは科学的ではなく、認められないのです。しかしながら元より患者さんは機械のような無機的なものではなく、生き物、つまりは「生もの」、言葉を換えれば「ゆるやかに連続して変化し続けるアナログな存在」です。それ故患者さんにはデジタルな検査だけでは捉えきれないことが数多ある、いやむしろ検査では判らないことの方が断然多いということを肝に銘じておく必要があるのですが、そこのところがなかなか難しい。だからそこに研修医などの初心者が陥りがちなピットフォールがあるのです。たとえば動悸を訴えている人を前にして話をよく聞きもせず、胸部聴診も簡単に済ませて、いきなり採血、胸部写真、心電図と心臓エコー、場合によっては冠動脈CTまで一挙にオーダーしてしまう。後は結果が揃うのを待つだけ。検査全てに異常が無ければその旨を事務的に患者さんへ伝え、一丁上がりというわけです。でも相も変わらず患者さんの動悸は持続しており、浮かない顔を見せている。それでも研修医君は「検査上、何も異常はありませんでした。気のせいでしょう。安心してお帰りください。」とにべもない。こんな風だから「担当医はコンピューター画面と睨めっこしているだけで、何も説明してくれなかった。」「きちんと診察もしてくれなかった。」「さっぱり良くならない。」そんなクレームばかりになってしまうのです。
 さてどうしたものでしょうか。結論を急ぎます。人は繊細な生き物です。「健康な肉体に健全な精神が宿る」というのは本当のことで、長らく身体を病んでいる人は、どうしても気分が落ち込みやすく鬱傾向になるものです。一方で心配事を山ほど抱えていたり、仕事で常に忙しくてイライラしている人は慢性的な頭痛や肩こりを訴え、常にお腹の具合が悪くて下痢気味だったりします。そのような場合、いたずらに検査を重ねていっても問題の解決には至らないことが多々あります。ここで必要なのは更なる検査でもなければ特効薬でもなく、患者さんへの傾聴と共感だとぼくは思っています。コミュニケーションの基本は相手の言うことを「聴く」ことです。良く解らなくてもまずは聴く姿勢をもつことが最も大切で、これなしにコミュニケーションは成り立たない。「朝まで徹底討論」だとか「日曜討論」などを観ていると、弁の立つ政治家が相手の話を大声で遮りつつ、口角に泡で持論を展開する姿が目立ち、暗澹たる気分になります。主義主張が全く異なって衝突するのは仕方がない。しかしこの国を背負って立つ人たちには、お互い解り合えるまで情理を尽くして説得する忍耐力、相手の意見を辛抱強く聴く包容力を持って欲しいと思います。先の「動悸を訴えている人」にあっても、必要最低限で簡単な検査を行って急を要する疾患を否定しつつ、少しだけ時間を作ってしっかりと目を合わせて話を聞けば、「嫁姑問題」で悩んでいたり、「介護」で疲れていたり、あるいは「転勤、異動」が控えていたりといったヒントが聴こえてくるものなのです。聴診器を胸に当ててゆっくりと聴診し、首や肩を触診しつつお話を聞く。肩に手を置きつつ、「大丈夫ですよ。」と伝えて差し上げるだけでウソのように症状が劇的に消失することも稀ではないのです。
 長らくお付き合い頂きありがとうございました。さあ、最後にちょっとカッコよくまとめれば、「聴診器は患者さんの心の声を聴き取るツールです。」ということになりますかね。やれやれ今回のエッセイも何とか無事に着地することが出来ました。いやあ照れますね、こういうことをさりげなく言えるようになるためには、まだまだ修行が必要でしょうね。