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青春の味

 風薫る五月です。ここ数日まさに五月晴れというべき青空が広がり、清々しい日々が続いています。でも油断禁物。昨夜は北部急患診療所で夜に診療しましたが、まだインフルエンザの患者さんがいました。季節の変わり目で、色々な風邪が流行っています。十分注意をしてください。一方で急に気温が上がってきており、まだ暑さに身体が慣れていない時期でもあり、高齢の方々や小さいお子さんは簡単に脱水を起こします。こまめに水分補給をしましょう。

 一昨日は「昭和の日」でした。ぼくは昭和40年生まれですので、青春の日々を「昭和」の終盤に過ごしたことになります。音楽はカセットテープの時代でした。今のように携帯電話など無い時代でしたので、友人たちとの情報交換は専ら「飲み会」の場で行いました。ホント、勉強そっちのけで良く飲みました。懐かしい思い出です。
 古き良き時代の思い出は、知らないうちに美化され、どんどんと脚色されていきます。「俺たちの時代はなあ、」と遠い目をして語るおじさんたちの気持ちが、最近少しはわかるようになってきました。思い出はそのまま心の中にしまっておくべきで、古い箱の中から取り出してきて追体験したりしない方が良いということを今回はエッセイにしてみました。


 まひと内科クリニックを立ち上げてから早いもので丸10年が経過した。最近看護師、事務員双方に大幅な異動があり、開院当初から勤続10年を迎えるスタッフは3人のみとなってしまった。晴れの日も嵐の時も共に歩んできた彼らの労に報いるため近々一席設けようと考え、どこか行きたいお店があるか尋ねたところ、昨年開院10周年記念のパーティーを開いたお店で皆と楽しく飲んだ赤ワインが美味しかったので、もう一度そのワインが飲みたいとの返事。ぼくは微笑みながら、それは止めておいた方が良いと諭した。今回はその辺りの想いを書いてみたい。
 先日内科学会総会で京都を訪ねた。天候に恵まれず、雨の京都は思いのほか寒く、駅に降り立ったぼくら夫婦は暖を求めて何の変哲も無い駅ビルの中にある蕎麦屋に入った。ぼくは鰊蕎麦を、妻は湯葉蕎麦を注文してお互いにシェアしつつ食したが、これがとにかく美味しかった。京都に行くと必ず鰊蕎麦を食べるのだが、どこの蕎麦屋に入ってもまずハズレは無い。老舗の誉れ高いお店ではお土産として鰊の炊いたものを販売している処がほとんどなので、一頃よく買って帰っては妻に御願いして鰊蕎麦を作ってもらって食べていた。ところがこれがあまり感動を呼ばない。妻の名誉のために書き添えるが出汁は鯖節と鰹節で引くし、返しも自家製で、さすがに蕎麦打ちの趣味はまだ無いので麺は既製品を利用するが、それでも常連店のものを分けてもらっている。その辺の蕎麦屋よりは数段美味しく出来上がるのだが、鰊蕎麦にしてしまうと、どうも何かが違う。
 食いしん坊のぼくにとって旅先の楽しみはご当地の名物を食することに尽きるのだが、さてこの美味しさを留守番している妻にお裾分けしたいと願ってお土産に買って帰っても、満足する結果になることはほとんど無い。もちろん妻は喜んでくれるから、お土産としての役目は十分に果たしているのだが、ぼく自身がお相伴に預かって食してみても、終ぞ美味しいと思えたためしがない。どうやら食べ物の味というものは、そのかなりの部分を環境と言えばよいのか、あるいは旅という物語の文脈に依存しているのではないかと思うに至った。
 このことを最近数十年ぶりに読み返した本の一節で再確認して深く感動したので、ここに引用してみたい。哲学者の中村雄二郎先生が文化人類学者である山口昌男先生と共に著された名著「知の旅への誘い」の中で、食べ物の味とは何かに関して述べておられる。曰く、「旅先の現地でうまいと思った味は、その食べ物それ自体の固有の味であるよりも、その土地の色々な食べ物や飲み物との関係の中で成り立っているものであり、つまり、ものの味とは、もともと一定の具体的な場所(トポス)あるいは空気(雰囲気)の中でしか、厳密には成り立たないものなのではなかろうか。」とのこと。はたと案を打って納得した次第。とすれば京都あるいは北海道の名物である鰊蕎麦を東北地方で食べても、今一つであることは無理からぬことであり、素直に盛り蕎麦ないしは天婦羅蕎麦あたりにしておくのが無難ということなのかもしれない。
 つい最近お酒の量販店で学生の頃に良く飲んだバーボンを見つけ、あまりの懐かしさに負けて買って帰ってきた。いそいそと水割りを作って飲んでみたが、これが何とも薬臭く、味も素っ気もないので閉口してしまった。しばし沈思黙考し、これも中村雄二郎先生の説で説明が付くのだと納得した。何となれば即ち、あの頃美味しく感じたのはバーボンそのものの味が特別に上等であった訳ではなく、夜を徹して語り合い、飲み明かした友人たちと過ごしたかけがえのない時間という絶妙なスパイスの効果があったからなのだ。
 このように考えてくると、クリニックのスタッフが先の開院記念パーティーの時に饗された同じ赤ワインを今もう一度口にしたとしても、きっとそれほどには感動しないに違いない。あの時の美味しさは赤ワインそのものの味だけではなく、共に過ごした人との会話、その場の雰囲気などが相俟って作り上げられたものであり、仮に全く同じ銘柄のワインを用意しても決して再現できるものではないと思うのだ。だから仮に同じお店に行くとしても、ワインは別なものにした方がいいねとスタッフに話した次第。
 室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの」ではないが、遠い昔(early times)に感動した「あのときの味」や「青春の味」というものは、銘々の記憶の中にのみ美しき想い出として留めておくべきものであり、再現して味わおうなどと思ってはいけないものなのかもしれない。