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においにまつわるお話

 昨日の日曜日はほぼ一日中雨で、予定していたランニング練習が出来ずじまいでした。でもそのおかげでエッセイを一本書くことが出来ました。雨上がりには色々なにおいがします。においは記憶とも密接な関わりがあり、調べてみるととても興味深いのです。

 朝起きて庭に出てみると沈丁花(ジンチョウゲ)が満開を迎えており、その馥郁たる香りに包まれて目がすっきりと覚める。流石に梔子(クチナシ)、金木犀(キンモクセイ)と並んで三大芳香花と呼ばれるだけのことはあり、その一枝を手折って玄関の一輪挿しに活けておくだけで、しばらくの間香りを楽しむことが出来る。その手折った一枝も花が散ってから土に挿しておくと、かなりの確率で根付く。沈丁花の移植は滅多なことで成功しないが、挿し木は比較的うまくいくので覚えておくと良いかもしれない。
 柑橘類の香りも気持ちを落ち着けてくれるので、通勤で利用する車の中には最近柚子の実を常備している。これから暑い季節はどうかわからないが、今くらいの気候であれば1個で2週間ほどはその香りを楽しむことが出来る。車用の芳香剤を今まで色々と試してみたが、どれも当然のことながら人工的な化学物質の臭さに閉口し、好きになれなかった。柚子の実もお安くはないのであまり経済的とは言えないが、自然で控えめな香りに癒されるし、何よりも安全性が高いと思っている。
 特有なにおいで診断が付いてしまう病気があることをご存知だろうか。糖尿病が極めて悪化してくると血液中にケトン体と呼ばれる物質が蓄積して血液が酸性に傾く。この状態はケトアシドーシスと呼ばれ、糖尿病の急性合併症として極めて重大かつ深刻な病態だ。この状態に陥った患者さんは激しい嘔吐や頭痛に襲われ、呼吸が荒くなる。酸性に傾いた血液を、過呼吸することで何とか代償しようとするため(代謝性アシドーシスの呼吸性代償:HCO3 + H → H2O + CO2 つまり血液中に溜まった水素イオンを過呼吸することで排出する理屈、ちょっと乱暴な化学式だけど)なのだが、この状態にある患者さんが特有の臭気(アセトン臭あるいはケトン臭と呼ばれる)を発するのである。このにおい、一度経験すればまず忘れることは無く、糖尿病専門医であればこの状態の患者さんが診察室に入ってくるなり、何の検査もせずそのにおいだけで診断が付けられるはずだ。参考までにそのにおいを無理やり描写すれば、お酒を飲みすぎた翌朝二日酔いで青息吐息になっている人が発するにおいとでもなろうか。
 さてそれならば、もっと他の病気もそのにおいから診断できるのではないかという期待が膨らむ。実はその通りであって、人間にとって昔からの良き相棒である犬たちの素晴らしい嗅覚を利用して、ある種の癌を見つけられることは実際に実験で確かめられている。癌組織が作り出す化学物質のにおいを犬たちに認識させることが出来れば、患者さんの吐息や尿を材料にして、犬たちが癌を早期に発見してくれる時代もそれ程遠い未来ではないのかもしれない。もちろんあなたのそばに寝転ぶ犬が、ある日突然あなたのにおいを嗅いで悲しそうな表情をするなどということは無いのであって、犬も人間もそれなりにトレーニングを積む必要があることを忘れてはいけない。ところで犬の嗅覚はどの位鋭いのであろうか。我々人間の鼻にはおよそ600万の嗅覚受容体があるとされるが、ビーグル犬のそれは何と3億以上とされる。とすると犬たちの嗅覚は我々のそれとは比較にならないほど敏感で、彼らと比べたら我々は完全な嗅覚欠如症ということになりそうだ。そのほか犬の優れた嗅覚に寄与するものとして鋤鼻(じょび)器官あるいはヤコブソン器官と呼ばれるものが重要で、この辺りのメカニズムは知れば知るほど面白い。興味のある向きはぜひ成書を紐解いてみて欲しい。まあ難しい話は抜きにして、犬たちが毎朝濡れた鼻をぼくの顔に押し付けてきて起こしに来るのも、スリッパや靴下を咥えてボロボロにしてしまうのも、彼らの鋭い嗅覚がなせることだとわかると許せてしまうのだった。
 最後に医師として駆け出しの頃にぼくが経験した、においにまつわる一つのエピソードを紹介したい。真夏のある日、小さな病院の狭い詰め所でカルテを記載していた。ぼくの隣では、やはり駆け出しの看護師が腰掛けて看護記録を書いていた。時は夕刻、冷房の効かない詰め所は蒸し暑く、ぼくも彼女も汗だくだった。彼女が中腰になって僕の前にある棚から何かを取り出そうとした時、かすかに汗のにおいが漂った。その瞬間無性に愛しさというか、はっきり言って性的な昂揚感を感じた。自分の中に潜むオスとしての本能、いや衝動のようなものを強く、はっきりと意識させられた。さあチャンス!と思われる向きも多いことだろうが、不器用なぼくのこと、彼女との間には読者諸賢が期待するような事は残念ながら何もなかったことを書き加えておく。最近の研究で、ヒトにもフェロモンがあり、それは主に鋤鼻器官で感知されるという結論を発表している科学者も居る。はっきりしたことは未だ不明だが、においが男女の間を微妙にかつ巧妙に取り持つことは動かしがたい事実だとおもう。
 若い頃は女性の汗や香水のにおいに少なからず心乱されたものだが、最近はすっかり落ち着いてしまい、同じにおいでも「きな臭い」ことや「胡散臭い」ものばかりが気になるようになった。どうも今の政権を担う人達のにおいは好きになれない。

参考文献:「犬から見た世界 その目で鼻で感じていること」
    アレクサンドラ・ホロウィッツ著 竹内和世訳 白楊社