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「ぼっち席」の背景にあるもの

 先週末、岡山で開催された「糖尿病学の進歩」に参加してきました。診療をお休みしたので、ご迷惑をおかけした方々にお詫び申し上げます。
 岡山で学生生活を送る息子と久しぶりに再会し、厳しいながらも有意義な大学生活を送っている姿を見て一安心しました。大学時代は一生の友と出会える、またと無い時期ですが、最近の学生さんたちは友人よりもスマホなのかもしれませんね。今回は「ぼっち席」なる現象を考えてみました。

 「ぼっち席」なるものを某大学が学生食堂(学食)に設置したと報じているニュースを読んで驚愕した。この「ぼっち席」、一人ぼっちで食事をする学生のために用意された席のことで、対面して腰掛ける人と顔を合わせなくても済むように、丁度眼の高さに仕切り板が設置されているという。学食がサークルや部活の集団に占領されていて、一人で食事をしたい学生の居場所が無いことを、保護者が見咎めて大学側に申し入れをした結果実現したものらしい。大学生にもなって保護者が出てくることへの違和感もさることながら、学食で一人ぼっちで食事をするという光景がぼくには俄かに信じられなかった。学生時代を振り返ってみれば、学食は憩いの場であり、情報交換の場であり、そして勉強の場でもあった。授業を終えると三々五々顔見知りが集まってきては、定食を食べるやら、ラーメンをすすりながら迫り来る試験の過去問をコピーしたり情報を集めたりしたことを懐かしく思い出す。授業には全く顔を出さずとも、何故か学食には朝から居る友人も少なからずであったし、とにかく学食に行きさえすれば誰か彼か知り合いと出会うことが出来て、楽しかった。一転して現代は食事の際に他人と同席することを極端に嫌う学生が多く、甚だしい場合には一人でトイレに籠っておにぎりを頬張る「トイレめし」なる奇行もあるという。その背景に如何なることが隠れているのか考えてみたい。
 まだあまり親しくない人と一緒に食事をする場面では色々と気を遣うものである。お箸やナイフ、フォークの使い方などに代表されるテーブルマナーをはじめとして、好き嫌いの有無、食べる速さや一口の量などからその人の育ちと教養の程度がある程度わかってしまうから緊張する。つまり「お里が知れる」わけなのだが、その緊張感に耐えて食を共にすることには大きな意味がある。相手の美しい所作に感動して見習おうとすること、いい年をして食べ物の好き嫌いが多いことを初めて恥ずかしく思って直すよう努力することなどはいずれもわが身の成長に寄与する大切な経験である。自分の家では当たり前であったことが実は非常識であったことに気付いて愕然としたり、相手のマナー違反をやんわりと指摘したりする方法は、なるべく若いうちに経験しておいた方が良い。つまり食事を共にするということは、我々が他人と上手に付き合っていく術を訓練する絶好の機会となるのだ。
 恐らく今の若者たちはそのようなこと全てが面倒で、嫌な思いをするくらいであれば他人との係わりなど極力持たず、一人の殻に閉じ篭もる道を選ぶのであろう。他人と食卓を囲めば、不快なことの幾つかは覚悟しなければならないものだが、食事中にスマートフォンでメールのやり取りをしている限りにおいてはそのような心配も無い。しかし若いうちに他人との関係構築に苦労し、悩む経験を積極的に積まないまま長じてしまうと、就職後に深刻な問題を孕むのではと危惧する。言うまでも無くひとは一人では生きていくことが出来ず、有形無形、様々な協力をし合ってこの社会で暮らしている。自分の思い通りにならないことも数多あり、妥協やすり合わせの技も必要だ。今後、事在るごとに自分だけの世界に逃げ込んでいくとしたらこの先長い人生、しぶとく生き抜けるはずが無い。もちろん結婚生活など営める訳が無く、最近言われる若い男性の草食化あるいは絶食化も深く頷ける次第である。
 さあ学生諸君、「ぼっち席」に逃げ込んでスマホを覗きながら飯を食うのは今すぐ止めて、定食のトレイを持ちながら広い学食内を歩き回ってみなさい。そしてどこか空いている席を見つけて、「ここいいですか?」と声をかけよう。素敵な出会いが待っていることだろう。検討を祈る。