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学ぶということ

 早くも5月です。花の季節はそろそろ終わりですが、これからは新緑が目にまぶしい季節です。日に日に日差しが強さを増しており、紫外線の量が増えています。運動時にはサンスクリーンなど、日焼け対策をしっかりとしましょう。

 先日バス停で待っていると、近くで中学生の数人が話し込んでいました。今度の中間テストで平均8割の点数を取ったら、どうやら親に何か買ってもらえるようです。
 飴と鞭的な方針で、果たして子供たちが勉強するようになるのかどうか、つい考え込んでしまいました。彼らが勉強しなければならない理由を、将来収入の多寡や報酬の有無で説明した場合、もし彼らが「ぼくはお金なんかそれほど要らないよ。食事だってコンビニで十分だし。」とか、「金儲けなら株でもやればいいじゃん。」などと言い出した時に反論する手立てが無くなってしまいます。
 彼らが学ばなければならない理由は、もっとほかの所にありそうです。

 学びに関するショートエッセイです。

 いつであったか、某新聞に「若い声」のような読者投稿欄があって、そこに女子高生が投稿していた。彼女は英語が大好きで現在一所懸命に勉強をしており、将来はその英語を生かして通訳を目指したいとのこと。学校の授業でもっと英語の時間を増やして欲しいと思っているのに、現実は生物や化学といった自分には必要の無い授業が組まれていて辛いと、確かそのような内容であった。この投稿を読んで、まだ高校生でありながら自分の将来就きたい仕事に関して既に明確なイメージを持っていることをたいへん好ましく感じた一方で、学校で学ぶことの内容を、今の自分に必要か不必要かと拙速に判断してしまっていることを残念におもった。
 かく言う私も昔日本史や世界史が大嫌いで、これから未来に向けて歩む若い自分にとって、昔の出来事を学ぶ必要がどこにあるのかとのおもいを長らく払拭できずにいた。しかし長じて働くようになってから、歴史を知らねばお隣の国の人が何ゆえそれほどまでに怒っているのかよく解らないし、旅行で訪ねた神社仏閣もその由緒を知らぬと楽しみが半減することがよく解るようになった。あるいは純文学も古典も漢文も、知っていなければ話に着いて行けない世界があることも知った。
 学ぶということは、自分が現在持っている価値判断基準の尺度を更新していく作業と言えるかもしれない。世の中には自分の持っている物差しでは計れない物事がたくさんあるということに気づくこと、自分には知らなくては済まされないことが山積しており、それを知るためには一刻も猶予が無いという切迫感に駆られることが学びを起動させるのだとおもう。でも残念ながら偏差値偏重の現代学校社会では、この「気づき」や「切迫感」をこどもたちに与えることが出来ていないのではないかともおもう。それではどうするのか。残念ながら私には解らない。
 それでも子供から何故学ぶ必要があるのかと問われれば、何とか答えなければならない。学びの楽しさを伝えなければ大人として許されないとおもう。「その問いに答えられるような人になるために学ぶのだよ。」とでも答えるしかない。あるいは、「いいから、黙ってやりなさい。あとになって必ずやその意味が解るから。」そんな風にしか答えられない自分がもどかしい。だから件の女子高校生に対してなかなか説得力のある反論が出来ないのだが、次のように諭すしかないとおもった。
 「好きな英語を生かして通訳になったとして、あなたがリトマス試験紙の赤青も知らず、呼吸や光合成のことも知らなかったら、科学会議での通訳は出来ないでしょう。歴史や文学、神社仏閣に始まり絵画、美術、骨董にも造詣が深くなかったら、いくら英語が話せても、外国のお客さんに説明は出来ないでしょう。」