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巳年生まれの年賀状

 新年明けましておめでとうございます。本日より今年の診療を開始いたします。気持ちを新たに、皆さまの健康サポートにまい進していく所存であります。
 わたくし事ですが、今年は年男です。健康に注意しつつも、精一杯頑張っていきたいと思っています。
 以下は仙台市医師会報新年号に掲載予定の一文です。ホームページ上で先行掲載しちゃいます。

 医院を開いてから電子カルテを使用するようになった。処方や検査入力など便利な点は多々あるものの、総じてどうかと問われれば、電子カルテに反対票を投じたいと思っている。その理由について少し考えてみた。
 どの病院にも幾多の危機的状況を超えて生き抜いている名物患者さんが居るもので、その人達のカルテは例外なく分厚く、ずっしりと持ち重りのするものになっている。担当主治医となり診断治療上困ったことに出遭っても、この分厚いカルテを丹念に読み込めば、大半の問題は解決できるものだ。そんな経験を積むうちに、いつの頃からかカルテには神様が宿ると考えるようになった。ところが電子カルテになってからというもの、この神様が全く力を貸してくれない。大事な既往歴を見逃したり、同じことを何度も患者さんに訊いたりしてしまう。どうやら電子カルテには神様は宿らないということらしい。
 この「カルテの神様」をもう少し学問的に定義したいと常々思っていたのだが、或るとき尊敬する思想家、内田樹先生の名著「寝ながら学べる構造主義」を読み返していて、はたと案を打って納得する記述に出遭った。構造主義の四天王と呼ばれる言語学の始祖、ロラン・バルトは我々の言語を規定するものとして、ラングとスティルを挙げている。ラングとは言語を外側から規定するもので、我々日本人にとっては日本語という言語がラングである。一方スティルとは各個人が有する言語運用上の癖のようなもので、会話では声の大きさ、トーン、話すスピードや間の取り方、記述においては文字の大きさ、句読点の頻度、文字の勢いなどを表すという。このスティルがワープロに代表される電子記録では恐らく障害されるのである。紙カルテに気になる要件を書き込む際、我々は無意識のうちに字体や字の大きさ、勢い、書く場所や色を変えている。後から読み返した際、いつものスタイルと違う記述に出遭うと、瞬時にあの時自分が何を疑い、懸念していたのかなどの記憶が甦るのだ。記述されている内容そのものだけではなく、このスティルと呼ばれるものが毎回の診療で得られた貴重な患者情報を紙カルテに蓄積していくのではないか。
 紙カルテに出来て電子カルテに出来ないもう一つの重要なこと、それは“斜め読み”である。電子カルテでは記録量が増えれば増えるほど、その全てを最初からシーケンシャルに読み進めることは困難になる。一方紙カルテでは、手にとってパラパラとページを捲っているうちに訳も無く目が留まる箇所があり、実はそこにとても重要な情報が書かれているというような不思議な体験をしたことが誰にでもあることと思う。大事なことが書かれている所には“開き癖”が付いていることがその一因かもしれないが、単にそれだけではなく、ざっと斜め読みをするだけでその時に必要な情報を的確に探し出せる不思議な能力が人間には備わっているのだと思う。
 辞書類が電子化されて久しいが、電子辞書の普及が現代日本人の学力低下に一役買っていると睨んでいる。何度も辞書を引き、絶対に忘れまいと切迫した思いで赤線を引く、その繰り返しが勉学には不可欠なのだ。この上近い将来学校の教科書も電子化されるとなると、子供たちの学びを取り返しのつかないレベルまで毀損することになるのではと危惧しているのだが、いかがであろうか。