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杞憂

 むかし中国は杞の国に「天果たして積気ならば、日月星宿は当に墜つべからざるか」あるいは「地の壊るるを奈何せん」と心配して、「寝食を廃する者」が居た。「天が空気の積み重なりならば、どうして太陽、月や星は落ちてこないのか?大地は崩れ去ることはないのか?」と心配するあまり、食べ物ものどを通らず、眠ることも出来ないという心配性の人だ。

 よく分かる。ぼくもどちらかというとあらゆる面で慎重派、悪く言えば意気地なしあるいは臆病である。新しいことにチャレンジする際に二の足を踏むのはしばしばであるし、石橋を叩いても渡らないことがままある。往々にして一つの些細な心配が新たな不安を呼び、雪だるま式に大きく膨らむ。一方でぼくの相棒はどちらかと言えばイケイケの行動派、悪く言えば軽率で、崩れかけた吊り橋の足板をたたき割りつつ強引に渡っていくタイプである。まあ要するに夫婦というものは、時間の経過とともにあらゆる面において自然と上手くバランスが取られ、丸みを帯びて帳尻合わせがなされるということだとおもう。

 いま、再び新型コロナウイルスの感染が全国各地に拡がり、これから宮城も例外では済まされないであろう。もしぼくが感染すれば同居する高齢の母に伝染させ、重篤化してその死に目にも会えないかもしれない、愛犬たちの世話は如何にする、クリニックは長期閉院の末多額の借金を抱えて倒産、相棒と共に路頭に迷うなどとあれこれ心配しつつ嘆息していると、相棒は「よくもまあ次から次へとそう心配事を見つけてくるわね。心配はパパの趣味ね。ま、何とかなるわよ。職員たちにも丁度良い休憩になって、却っていいわよ。本当にどうしようもなくなったら家から何から一切合切全て売り払って無医村にでも行きましょう!」などと宣う。これを聞いて、なんだか拍子抜けして力が抜けた。確かに今まで、あれやこれやとぼくが心配してきた事項の99%は現実にならなかった。つまり心配するだけ時間の無駄、心労が嵩んで損ということで、最近では心にあれこれと不安が浮かんできても、それらをひとまず箱に入れて脇に寄せておくことが出来るようになってきた。相棒に感謝である。

 新型コロナウイルス感染症も発見、報告されてから既に半年以上が過ぎ、「新型」という形容詞もそろそろ色あせてきた。全世界で数えきれないほどの死者を出し、未だにもちろん油断の出来ない新興感染症であることに間違いはないが、日本では感染してもその大多数が軽症に留まることが判ってきた(国立国際医療研究センターが全国で3~6月の入院患者約2600人のデータを解析した結果、死亡率が7.5%で、欧米や中国に比べると一桁少ない数字になっている)いま、我々の取るべき感染防御態勢を徐々に変えていく必要があるようにおもう。大声を出した時に発生する飛沫やエアロゾルが危険であることは間違いなさそうだから、大声援をともなうスポーツの応援や、狭いカラオケルームで飲食しながら歌うことなどは今後も避けた方が無難かもしれない。一方でクラシックコンサート、歌舞伎、演劇や映画などは観客のマスク着用と換気の徹底を条件に興行規制を緩和してもよさそうだし、買い物でもバーゲンで商品を血眼になって奪い合うがごとくの密集がなければ特に心配はないだろう。でも、いま日本社会を覆うムードはまだとても重苦しく、来るお盆の帰省ラッシュもおそらく限定的なものになるのではないか。実際、当院を訪れる方々に今年のお盆の過ごし方を尋ねてみると、多くの人が何処へも行かず、子や孫にも帰省せぬよう諭しているようだ。政府が再度緊急事態宣言など発出しなくても、多くの人たちがあらゆる行動を勝手に自粛する、それが今も昔も変わらない日本人の気質である。いま、新興ウイルスの流行に際会し、多くの人たちが実は自らの感染、発症そのものよりも、たとえば子供たちが帰省して万が一にもウイルスを自分らが住む地域に持ち込む危険性を心配している。換言すれば「世間の目、世間体」を気にしている。「皆が我慢している時に、あの家はなんだ」とか、「このようなご時世に帰省ですか?」といった現実にはありもしない非難の声が、多くの人たちの耳に幻聴の如く響いているのが実情だろう。ぼくは「欲しがりません、勝つまでは」とか「非国民」といった言葉を実際に聞いたことのない戦後生まれだが、きっと今の状況は先の戦争当時にとても似ているに違いないとおもっている。

 経済重視の人は、「人はコロナウイルスだけで死ぬわけではない。このまま国民の自粛が続けば、特に中小企業はその経営が行き詰まって経営者は生活費に困窮し、絶望のあまり自殺する人が増えてしまい、そちらの方がずっと問題だ」と警鐘を鳴らす。それはその通りなのだろうとおもう。でも前述した、周りの目を過剰に気にする「日本人の気質」が容易には変わらず、脈々と息づく伝統であるならば、Go Toキャンペーン等でいくらお金が出ると分かっていても、現時点でお気に入りのお店に足しげく通い、夏休みの旅行を心から楽しむことが出来る人はそれほど多くはないであろう。確かに人は新型コロナウイルス感染症だけで死ぬわけではない。でも、考えてみてほしい。昨年の今頃には、この感染症で亡くなった人はどこにも居なかったのだ。今や全世界で70万人以上、少ないと言っても千人以上の日本人に死者が出ている状況を考えれば、自粛など意味はなかった、早々に元の生活に戻るべきだと叫ぶのは少々乱暴に過ぎないか。もう少し時間が必要なのだ。今はまだ、新型コロナウイルスとの共生がどのようにあるべきか手探りしている段階で、決して焦るべきではない。時が来れば、「新型」によって引き起こされた大波は徐々に収まってきて、凪のような穏やかな湖面に必ず戻る。ただの風邪とまでは言えないまでも、季節性インフルエンザ程度の扱いに社会はきっと戻る。そしてこのウイルスの存在を包摂した上で必ずまた経済は回り出す。それまでの間、いま特に大きな打撃を被っている飲食、観光業界にあっては何とか凌ぎ、崖っぷちで踏みとどまって欲しいと願う。政府には店舗家賃の支払い猶予以外にも新たな手厚い支援を早急に追加検討して欲しい。一方で個人としてのぼくらに何ができるのか。馴染みのお店でテイクアウトを頻繁に利用し、お気に入りの宿のプリペイド宿泊券を積極的に購入する、あるいは流行りのクラウドファンディングとやらを立ち上げて寄付を募るなどだろうか。いや、もっと大切なことがあるようにおもう。それは過剰に心配し過ぎない心構えである。過剰な心配は根拠に乏しい新たな不安を呼び、募る不安は人々の心から徐々に寛容性を奪う。周囲の目を気にするあまり、誰も居ない場所でもマスクを外せず、人込みなど起こり得ない郊外の土手沿いを散歩することまで控えてしまう。あたかも、かのミシェル・フーコーが「監獄の誕生 監視と処罰」で管理統制社会の比喩として挙げたパノプティコン(全展望監視システム:刑務所の中央に監視塔が設置され、囚人からはその中に看守が居るのか居ないのか全く見えない。実際に監視されているのか否かが分からず、結果として脱走等の良からぬ企みを囚人が勝手に自粛する)の様相を呈してくる。感染した人に対して、その原因をその人の行動(不用意に夜の街に出かけた、接待を伴う飲食をした)のみに求め、あら探しを始めるようになると社会は着実に殺伐とした方向へ向かう。相互監視が当たり前の社会はきっと息苦しいことこの上ないであろう。元より新型コロナウイルス感染は犯罪や反社会的行動ではなく、正真正銘の病気である。病気は誰の身にも時を選ばずに起こりうるもので、明日は我が身かもしれないという、至極当たり前のことをけっして忘れてはいけない、強くそうおもう。

 いま、東京では連日感染者数の増加が観られ、これからお盆を迎えて後、更なる感染爆発が生じて重症者も増加、病床がひっ迫して医療崩壊が起こる。心配性のぼくとしてはこのような不安がないとはとても言えない。でも、今年の春に比べればこの感染症にかんしてある程度その病態は解ってきたし、不十分とはいえ治療法も工夫されつつあり、さらに今後ワクチンの製造供給も予想に反して早まりそうな状況である。もはや敵は全く未知の「新型」ではなく、その姿が朧気ながらも見えてきているのが現状なのだ。「彼を知り己を知れば百戦殆からず。彼を知らずして己を知れば、一勝一敗す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し」だ。そして繰り返しになるが、日本における死亡率は現時点で7.5%と低い。もちろんコロナで大切な人を亡くした方にとってこの7.5%という数字は何の意味も持たず、慰めの一つにもならない。むしろ「人はコロナのみで死ぬにあらず」という言説は御遺族にとって暴言となりうるのではと危惧する。亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りしつつ、一方で今後この数字が上昇することがないことを心から願う。もしこの数字が維持されれば、日本において新型コロナウイルスとの共存は十分に可能だろう。もちろん日本における死亡率が低い理由について、きちんと科学的な究明、説明がなされないと安心はできない。その理由はよく分からないけれど、実際に少ないのだから大丈夫だろうと言い募るだけでは、かつての「神風が吹く」の類と同じである。

 人の性格、習慣はそうそう簡単に変わるものではない。疲れが溜まってくると、また様々な不安がぼくの心に浮かんできて膨らむ機会を虎視眈々と窺っている。その対策として美味しいものを食べ、ジョギングすることで気分を変え、きっと何とかなる、ぼくの不安のあれこれは当に「杞憂」に終わるに違いないと多少無理をしてでも信じるようにしている今日この頃なのである。