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英語についておもうこと

 令和2年度から始まる大学入学共通テストで導入が予定されていた英語の民間試験にかんして、文科省は「全体的に不備があると認めざるを得ない」として導入の見送りを決定した。「朝令暮改」「ドタキャン」とのそしりは免れないが、ぼくはよかったとおもっている。
 英語教育が不要と言いたいのではない。医学も含めて自然科学の分野で論文を書く際の世界共通言語は英語であり、ノーベル賞級の新知見も英語で論文化されなければ世界には相手にされない。人文社会学の分野でもことは同じであり、経済学、心理学、社会学でも所謂「一流誌」と呼ばれる論文誌はみな英語である。文学だって川端康成、三島由紀夫に始まり毎年ノーベル文学賞で騒がれる村上春樹の作品も、英訳されているからこそ全世界から注目を浴びる。だから大学に入学するにあたり、将来どのような分野に進むにしても、英語で書かれた文献を読解し、また作文するための最低限、基本的なスキルはどうしても必要となる。しかしそのスキルは語彙力と文法の理解が中心となり、リスニングとスピーキングは大学入学時点でさほど重要ではないとぼくはおもう。辞書を引きつつ、ある程度の時間をかければ専門分野の英語文献を読み込める程度の文法知識と語彙力さえあれば、大学生としてまずは合格ではないか。
 昨今は社内の会議を英語で行う企業があり、また授業のすべてを英語で行う大学もあると聞く。一見先端的で洗練されているようにおもえるかもしれないが、決して言祝ぐべき流れではない。たとえどれほど英語に堪能な人であっても、日本人としての知的パフォーマンスが最高となるのは母国語である日本語を用いて議論、発表、教授する場合であるはずだ。そうであれば特に大学において、教える側も教わる側も共に母国語としない不自由な英語を用いて授業がなされれば、大学教育が目標とする知的レベルへの到達までに今よりも気の遠くなるような長い時間を要し、その挙句恐らく学生の理解習熟度は今よりも極めて低迷するであろう。
 日本人の多くは中学、高校と6年間も授業で英語を習っているにもかかわらず、英語が聴けずに話せない。何故かと問われれば、英語が日本で生きていくために必須ではないからだと答えたい。聴けて話せなければ衣食住に困り、場合によって生命に危険が及ぶような状況に置かれれば、誰だって何とかするものだ。身振り手振りを交えて片言の単語を駆使しつつ、何とかコミュニケートする、外国語の習得とはそういう切迫した状況に身が置かれない限り難しいものだとおもう。ただ聞き流していればある日突然聴けるようになるなどということはあり得ないのだ。
 現代はグローバル時代と言われるが、圧倒的多数の日本人はこの狭い日本列島で一生涯を過ごす。ごくたまに出かける海外旅行のためだけに流暢な英語スピーキング力は不要である。蛇足になるが、あと数年もすれば人工知能搭載の高精度多言語翻訳機が商業ベースに乗って今よりも更に安価で販売される時代が来る。旅行はもちろん、ある程度専門的な会議においてもストレスなく会話が成り立つ可能性が高い。だから無理に英語教育に時間を割かず、むしろ古文も含めた日本語の教育に力を注入したほうが良いのではないかと常々おもうのだ。もしどうしても若い人たちに話せて聴ける英語を身につけさせたければ、中学高等学校に在学中、数年間を全員海外で過ごさせるくらいのことを制度化し、あるいは英語を公用語として日本語使用を禁止する、政府お得意の「特区」でも作る以外にないのではなかろうか。国会答弁も例のヤジまで含めてみな英語で行うようにする。そうなればもはや日本ではなく、米国52番目の州ということになるのかもしれないが。まあそれは悪い冗談としても、高校生たちがスピーキングの試験対策のために、興味もわかない英語の発音練習に日夜悪戦苦闘するようなことだけは避けさせたい。身近にいる外国人と英語で話したいと願い努力する若者、あるいは一種のファッションと捉えて英会話レッスンに勤しむ若者に対してはエールを送りたい。でも今一つ英語が好きになれず、特にスピーキングやリスニングを苦手にしている若者に対しては、無理せず従来同様に文法と英単語の習得だけは頑張るよう助言したい。とりあえず読むことさえ出来れば、聞いたり話したりは後から必要に応じての努力で大丈夫だ。
 最後に英会話力というものがあるとして、それはあくまでも一つの手段あるいは道具にすぎないということを高校生たちに伝えたい。本当に大切なことはその手段を以てして、いったい何を相手に伝えるか、自分が何を成し遂げたいのかということだとおもう。包丁を研ぐばかりで切る素材無し、あるいは車を洗ってばかりで、誰かを乗せてどこかに出かける予定もないというような本末転倒の事態になってほしくない。身に着けた英語力で歴代の米国大統領就任スピーチを聴く、あるいはヘミングウェイを原書で読む、オリンピックで来日するたくさんの観客のお相手をするなど、何でもよい。とにかく言語は流暢だが、話している内容は低次元、意味不明というような大人にだけはならないよう切に願うばかりである。