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在宅で死ぬということ

 10月13日に父を看取った。いや、正確に言えばその時ぼくはまだ診療中であったので、ぼくの相棒が父を見送ってくれた。住み慣れた自宅の一室に運び込んだ介護用ベッドの中で、静かに眠るような最期であったという。
 父に異変が見つかったのは今から1年半ほど前のこと。ある夜、ちょっと診てほしいとやって来た父の下半身はパンパンに張れていて、一見して尋常ならざる病態を直感した。翌日から集中的に検査を進め、程なく病名が判明した。膵臓癌、そして肺転移。この時点で予後は数か月とおもわれ、そう遠くない父との別れを覚悟した。別れの辛さ以上に、これから父を襲うであろう種々の激烈な症状をおもうと暗澹たる気持ちになった。
 さてどうしたものか、思案した。進行癌であり、手術はもちろんのこと、化学療法も放射線療法も含めてすでに92歳を迎えた父に対する積極的治療の適応は、ない。大まかな病状説明の後、父に今後どうしたいか尋ねた。即座に「入院はしたくないなあ。」と答える。相棒の意見を訊くと、これまた即答で「家で過ごさせてあげたい。」と返す。概ねぼくも同意見で、これからなすべきことの多くは鎮痛、除痛を主とする緩和療法だとおもった。だとすればホスピスは別として、必ずしも一般病院に入院させる必要性はない。本人が入院したくないと言うのであるから、まずは何を措いてもその意に沿うのが息子の取るべき道だとおもい、意を決して在宅のまま特別な治療は一切行わずに、自然に任せる方針を決めた。
 決めたとはいえ、不安は尽きない。医師と看護師であるとはいえ、緩和療法にかんしては門外漢であるぼくら夫婦に、果たしてどこまでやれるのか、おもうほど考えるほどに恐怖感が増してくるのであった。それでもやはり、父を一般病院に入院させることは忍びない、そのおもいが強かった。   
 元より病院というところは病や怪我で弱った人を治療し、その人の社会復帰を後押しすることを主な役目とする施設である。つまり基本的には入院した人に何らかの治療施術を行って、彼あるいは彼女が元気を取り戻して退院することを大前提とした組織なのであって、その構造上そこに属する医師、看護師、検査技師にしても、とにかく彼らが患者に「何かを施す」場所なのである。だから、ひとたびあなたが入院してしまえば、彼らがあなたに「何もしない」ということは原則的にあり得ない。たとえあなたが不治の病でこの先余命いくばくかの状態で、もう検査も点滴も希望せず、ただ静かに過ごしたいとおもい願っていたとしても、彼らは定期的に診察採血をし、写真も撮れば点滴も行う。食が進まなければ鼻からチューブを入れ、あるいは胃に穴を開けて流動食を流し込むこともするだろう。急に呼吸が怪しくなれば、家族が駆け付けるまでの時間を稼ぐために人工呼吸管理も躊躇しないかもしれない。その在り方に対して、我々はやりすぎだと非難することは出来ない。彼らは仮に万が一、あるいはそれ以下の可能性であっても何かをするよう、諦めないように教育されてきたし、そうすることが彼らの病院での仕事、存在意義そのものなのだから。換言すれば、一般病院は治る見込みのある人には効率の良い居心地の良い施設だが、万策尽きてもはや打つ手もない病人が、安らかに、静かに死を迎えるためにはあまり適した場所ではないかもしれないということなのだ。
 誤解がないように付け加えるが、在宅での死を無条件に礼賛するつもりはないし、強くお勧めもしない。自宅で看取るためには、それ相応の準備と、何よりも家族の強い信念、覚悟が必要だ。換言すれば在宅看取りのためのハード面とソフト面両方の十分な準備が必要だ。実はハード面はそれほど難なく整えられる。今は訪問診療を専門とする医療施設がかなり増えてきたし、訪問看護、リハビリから入浴サービスまで充実しているので、それほど苦労せずに準備は整う。問題はソフト面であって、これから目の前で起こる種々の事態に動じることなく、急な変化があっても淡々と受け入れる覚悟が家族、とくに患者と長く接する家族には求められる。その代表が妻であり嫁であることは想像に難くないであろう。いくら緩和医療が進歩しているとはいえ、人が亡くなる直前には、多少なりとも苦しみ、恐怖、混乱があるものだ。ぼくも、父が亡くなる4日前から夜間、父の傍に付き添っていたが、数十分毎にぼくを呼び、とても熟睡できる状態ではなかった。この状態が数か月も続くとなれば、いくら若く、体力があったとしても肉体的にやがて限界が来るであろう。いや、その前に精神的な不調をきたすに違いない。だから、在宅で最期を迎えてもらうためには看病する側のマンパワーが十分に確保されていることがとても大切なのだが、ところがそれは昔の大家族なら可能でも、現代の少数家族にはとても困難なことなのだ。政府はこれから日本が迎える多死社会において在宅死を推進したい考えのようだが、核家族化が極端に進んだ現代日本において、在宅で死ぬということが如何に大変なことなのか、よくお分かりいただけるとおもう。
 父を看取り、次は今月満90歳を迎える母の番である。幸いなことに、今すぐにどうということはなさそうだが、いずれお迎えが来ることであろう。その際にもまた、どんなに大変であったとしても、できる限り自宅で看取ろうとおもっている。死はいったい誰のものか、いや死の主人公は誰なのかと考えるに、それは当然ながら今正に死にゆかんとする本人であろう。その本人が自宅でと望むのであれば、そのおもいにできるだけ寄り添ってあげることが、今まで慈しみ愛情深く育て上げてくれた母への恩返しだと強くおもうからである。