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読解力

 ここ数日、冬らしい日が続きます。早いもので12月も既に中旬となりました。ここからがますます早い!お掃除も早めに始めたほうが楽だと重々分かってはいるのですが、毎年ギリギリになってから手を付けて、結局中途半端に終わります。今年こそはとも思うのですが、やっぱり重い腰は上がりません。

 さて、今年最後のエッセイをアップします。月に一本書くことを年頭の目標に掲げていたのですが、何とかクリアできました。今回は「読解力」というタイトルで書いてみました。表現が変わるだけで、言いたいことはいつも一緒です。そうそう新しいアイディアが出てくるはずもなく、うん、来年はネタ切れになりそうだ。


 OECDが行った2015年の学習到達度調査(PISA)結果が公表され、日本の学生(15~16歳)は文章読解力が著しく低下していることが明らかとなった。読解力を担保すると思われる一つの因子である読書量がどんどんと下がっている日本にあって、この傾向は今後もしばらく続くのではと暗澹たる気持ちになるのだった。数学や科学の成績が上位だからといって安心できるはずはない。何故なら数学や科学の文章題では難度が上がるにつれて、何を訊かれているのか、問題文の要点を読解できなければ解答しようがないからである。加えて読解力が低いということは作文能力も低いということに繋がる可能性が高く、これから大学、大学院と進み論文を書かねばならぬ際に、深刻な知的不調をきたす学生が雨後の筍のように現れるであろうことは想像に難くない。それなのに、ことここに至ってもまだ小学校で英語を教えるなどという奇怪な教育論が隆盛を極めるのであれば、問題となっている読解力低下は教育行政を担う委員たちにも認められる深刻な病だとぼくはおもう。増やすべきは英語ではなく、国語の授業ではないのか。

 A4のルーズリーフに万年筆で日記を付け始めて10数年になった。日記というものは、えてして後日読み返すと赤面するような内容になりがちなので、なるべくその日に起こった客観的な事実だけを記して、それに対する感想を短く書くスタイルにしている。時々読み返すと、その当時ハマって夢中になっていた作家や論客の言い回しや語彙を真似して悦に入っている自分が見えて、それはそれで楽しいものだ。
ぼくが今趣味にしているエッセイ書きも、誰かの書いた本で出合った語彙、表現方法に感動し、これを真似てみたいという単純な理屈である。ある程度文章を読む量が増えてくると、凡人でも何か発信してみたくなるものなのだ。入力ばかりが続くと、どんなに出来の悪い頭でも、出力の歯車が回りだすものらしい。いつかどなたかの著作(おそらくは、いつもの内田樹先生)の中で、このことこそが「文武両道」であると書いておられたのを読んで、いたく感動した覚えがある。つまり「文」は書物を読み、あるいは師匠の一挙手一投足をひたすら観察して情報を入力することであり、一方「武」は入力してきた情報を自分なりに解釈、消化して自らの思考を口述、筆記あるいは実演すること、つまりは何らかの形で出力するということなのだ。このように考えてくると、我々日本人の知的パフォーマンスが最大化するのは、紛れもなく母国語である日本語で入出力する時であり、圧倒的に不自由な外国語で授業を行い、あるいは会議することは愚の骨頂ではあるまいか。なんですって?「単にあんたが英語を苦手にしているだけの話だろ?」いや、確かにそれも一理あるか。

 でも、敢えて言いたい。今からでも遅くないから、母国語である日本語の授業を増やしたほうが絶対によいとおもう。古文、漢文も削減したらだめですよ。現代文の長文読解に特化した授業を主たる柱として、中学、高校で「国語」の授業を増やすことこそが若い日本人の知的不調を救う唯一の処方箋だとぼくは考えるのだが如何であろうか。

 さて、話がいきなり飛ぶことをご容赦頂きたい。
 昔仙台駅のすぐ近くに「仙台ホテル」という老舗ホテルがあった。残念ながら廃業してしまったが、そのホテルのバーがぼくの親父の止まり木であった。ある時ほろ酔いの親父がご機嫌で帰宅し、その夜の出来事について面白おかしく話し始めた。ことの顛末はこうだ。その夜親父がいつものように飲んでいると、見慣れぬ若い男性客が女の子を伴ってカウンターに着席。杯を重ねるうちにその男性は着ているスーツはイタリア製で、時計はスイス製、靴はどこだかのレアものという具合に自慢話を延々と始めたとのこと。親父をはじめとした常連客は眉をひそめていたそうだが、なかなか若者の自慢話が終わらないので、ついに親父が一言、「中身だけ日本製で残念だったねえ。」と呟いたそうだ。一瞬の沈黙の後、その場は大爆笑に包まれたとのこと。まあ今だったら若者が逆上して流血事件に発展してもおかしくはないとおもうが、その時はすごすごと帰っていったとのこと。
いやはや昔も今も日本人は舶来品に弱い。一頃の洋酒ブームでは、海外旅行帰りのお父さんたちは挙ってヘネシーやジョニーウォーカーをお土産に持ち帰ったものだ。今でも時計や車はスイス製、ドイツ製の人気が高い。そういえばある層の若者たちにはアメ車も人気だなあ。今や道具や機械の性能は恐らく日本製が最も良いのだと思うが、「道具」として問題なく使用できるのであれば、アメリカ製でもドイツ製でも中国製でも別にかまわないようにもおもう。

 閑話休題。

 さて「押し付け憲法論」というものがある。現行憲法はアメリカに押し付けられたもので純国産ではないから駄目だと、まあそういう論理だ。でも「憲法」も一つの道具であり、道具としてきちんとその役割を果たしているのであれば、別にアメリカ製でもドイツ製でもイタリア製でも構わないのではないかね。実際にこの道具を使って幾星霜、日本は戦争せずに今まで歩んでこられたのだからね、多少不具合はあったとしても、強行採決を繰り返してまで道具の入れ替えを急ぐ必要はないのではなかろうか。こんなふうに考えたら怒られそうだけど、車や時計はステイタスだか何だか知らぬが海外製を好むのに、なぜ憲法だけは国産に拘るのかしら。それにね、現行憲法は読み込んでみると、結構崇高な理念を掲げて、ずいぶんと苦労の跡がうかがえる文章が並んでいるのですよ。まあ確かに70年も経過すれば、経年劣化は避けられないわけで、いずれ改定作業は必要でしょう。でもね、今回は改定するのではなくて解釈を変更したわけで、それもかなり無理のある解釈なのね。ぼくにはその解釈が、どうしても件の「読解力」を持った人が行ったものとはおもえないのであります。むしろ「曲解力」が旺盛なのかと感じた次第。そしてかの党が提案している新憲法の条文も読んでみたけれど、あまり上手な文章ではないのです。なんだかなあ。

 新国立競技場の年間維持費が24億円だって!今朝のニュースで知った。一月2億円の維持費、どうやって捻出するのかしら。2020年にそれなりの盛り上がりを見せて、無事にオリンピックが終了したとして、その後数年でほら、例の2025年問題というのがやってくる。街には年寄りばかりが溢れ、介護施設は何処もパンク状態。社会福祉施設を増やしたくても、予算が無いと、紋切り型の答弁。だからね、オリンピックに3兆円もかけるべきではなかったのですよと野党の議員が抗議する。なんだか目に浮かぶようだ。
 フクシマの廃炉も見積もりが甘く、実際にはとんでもない額のお金がかかることがはっきりした。ひとたび事故を起こせば、天文学的数字となる損金が発生するにもかかわらず、挙って原発再起動を目指す理由もやっぱりよく分からない。

 とにもかくにもこの世は分からないことばかりだ。新聞、新書や単行本を行間の意もくみ取るべく眼光紙背に徹しても、ぼくが出した答えはことごとく外れてしまう。あれ?つまりぼくの読解力もだいぶ落ちてきたということなのかしら。こまったねえ。