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未完であるべきもの

 「芸術の秋」「読書の秋」そして「食欲の秋」。もう一つ最近感じているのが「人生の秋」です。人生80年として、50代、60代はまさに秋ではないでしょうか。五十路を迎えて、我が人生を振り返るのです。「実りの秋」を迎えていると自信を持って言えるかなあと。

 今回は秋の夜長に感じたことをエッセイにしてみました。


 ある日の通勤車中での出来事である。FMラジオから聴き慣れた大好きなメロディーが流れてきて、おもわずヴォリュームを上げた。ロベルト・シューマンの「子供の情景」はお気に入りのピアノ曲の一つだ。クラシック音楽に興味の無い方でも、恐らくこのピアノ小曲集の中に収められている「トロイメライ」の旋律は一度ならず聴いたことがあるはずだ。おかげで渋滞のイライラから一気に開放されて聴き入ったのだが、ぼくが普段聴いている演奏とはずいぶん趣が違うことにびっくりした。ぼくの持っているCDは、アルゼンチン生まれの女性ピアニスト、マルタ・アルゲリッチが30代で録音したもの。力強く、アップテンポで、たとえて言えばやんちゃな10代前半の男の子をイメージする。実際アルゲリッチに男の子がいるのかどうかは知らぬが、恐らく彼女は元気な男の子を頭に思い描きながら演奏したのではないかとおもう。一方でFMの演奏はずいぶんと静かでゆっくり、かつ優しい。さて誰の演奏かしらと、NHKネットラジオ「らじる☆らじる」で調べてみたら、ヴィルヘルム・ケンプのものであった。ケンプは教会オルガニストの家庭に生まれ、幼少時から卓越したピアノ演奏の才能を見せ、1918年にソリストとしてデビュー。以来60年の長きにわたって活動したドイツの名ピアニストで、古典派、ロマン派の曲、特にベートーヴェンの名奏者として名高い。早速ケンプの「子供の情景」CDをamazonで購入して聴いてみた。1971年の録音だから、ケンプが76歳頃の演奏だ。タッチがとても優しい。ゆっくりとしたテンポで、穏やかな川の流れを彷彿とさせ、アルゲリッチの激しさとは対極にある演奏だ。なるほど、アルゲリッチが自分の息子をイメージして弾いていたのだとすれば、ケンプは孫あるいはひ孫を思い描いて演奏していたのかもしれない。

 二人の演奏を聴き比べながら、はたと考え込んでしまった。どちらも名演奏で、甲乙付けがたい。作曲者のシューマンは果たしてどちらを支持するのかな。楽譜にはもちろんある程度のヒントがあるのであろうが、どのように全体を解釈して演奏するかは、それぞれの演奏家に任された自由裁量権なのだとおもう。つまり演奏に「正解」というものは恐らく無いのだ。それぞれの演奏家によって、同じ曲でもまるで違った雰囲気になる。いや、同じ演奏家でも若いときと年老いたときの演奏ではきっとずいぶんと違った調子になるのだろう。つまりは究極あるいは完璧なたった一つの演奏というものはあり得ないわけで、演奏家の数だけ少しずつ異なった「答え」が存在するということなのだとおもう。

 先日奥平康弘氏と木村草太氏の共著、「未完の憲法」という本を読んでいたら、憲法というものはいわば「楽譜」のようなものであり、それをどのように読み込み、解釈するかに関しては決して硬直した決まりがあるわけではなく、広く皆に許されている権利であるというようなことが書いてあって、おもわず膝を打った。つまりはクラシックの名曲も日本国憲法も硬直した「完成品」ではなく、あくまでも「未完のもの」であり、過去も今もそして未来にわたってその解釈、意味合い、必要性が変わりうるものなのだ。でも、「楽譜」をあまりにも無視する演奏は、やはり根強い支持が得られないのではなかろうか。現政権が強行した「解釈改憲」はあまりにも変則的な演奏であり、多くの専門家に違和感を与えたということなのだとおもう。

 「楽譜」の解釈には種々あり、答えは一つではないこと。その演奏に決して無二の完成品は無く、むしろ未完であるべき存在だということを理解した。さて、それではこのことを医療に敷衍して考えてみる。医療は患者、医師、看護師、臨床検査技師、薬剤師に管理栄養士、そしてソーシャルワーカーや事務員その他まで、実にたくさんの職種と人が関与して成り立っている。多職種が共同して働くところは、一種オーケストラにも通ずるものがありそうだ。更に考えてみよう。患者は作曲家兼指揮者である。患者が病む疾患は十人十色であり、皆少しずつ違った表情を見せる。たとえば同じ「糖尿病」であっても、年令、性別、職業や食生活その他諸々による修飾を受け、一人ひとり全く違った表情を見せる。換言すれば、同じ「糖尿病」という疾患であっても、患者が持つ背景は一つひとつ異なっている。つまり患者は一人ひとり自分なりの人生物語(それを件の「楽譜」と呼ぶ)を持っていると言えそうだ。その「楽譜」をどのように演奏するかを決める上で最も強い権限を持つのは作曲家兼指揮者である外ならぬ患者なのだが、曲中にあるカデンツァ(独奏)の部分をどのようにするかはソリストの解釈に任されている。そう、このソリストこそが医師である。カデンツァを許されるためには、その技巧が優れていることはもちろんのことだが、より独創的で、しかしオーケストラ全体の調和を乱さない謙虚さが求められる。ところが残念ながら最近の医師はコンピュータ画面と睨めっこするばかりで、指揮者である患者をろくに見ない。それでは素晴らしいカデンツァなど望むべくもないのである。

 現代は多くの疾患において、その診療を助ける「診療ガイドライン」というものが作られている。このガイドラインのおかげで、我々は全国どこで暮らそうと、ほぼ同じレベルの医療を受けることが出来る。疾患に対して行われる検査から処方される薬まで全てほぼ一緒となるわけで、それは喩えて言うならばマクドナルドのハンバーガーみたいなものだ。何処で食べても同じ味で、間違いなくお腹を満たすことはできるが、感動が少ない。多くの人が、せっかくの外食ならば、できれば小奇麗なレストランや和食屋さんで食べてみたいと思うだろう。このことは医療に関しても全く同じなのであって、患者心理としては非日常の極みとも言える病気の診察を受けるにあたり、できれば優秀かつフレンドリーで何でも訊ける医師を選びたいのである。

 独立開業して12年、切れ味の鋭いメスを持つわけでもなく、神の手を有することもないぼくを実にたくさんの方々が支持して下さったことに心から感謝している。メスを持つ代わりに「楽譜」を読み込む技術を磨いてきたつもりである。時と場合によっては診療ガイドラインから逸脱する、いわば「型破り」のカデンツァを披露することもあった。五十路を迎えた現在、残念ながら日進月歩の医学に関する知識を遅滞なく習得することは段々と辛くなってきた。それでも「楽譜」をより独創的で新鮮な解釈のもとに演奏することがぼくの天命と信じ、これからも歩んでいきたい。唯一無二の究極至高な演奏などというものは、無い。演奏は常に「未完であるべきもの」、それがぼくの信念である。