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「死」を考える

 しばらく前から「院長の本棚」と題して読書感想文を定期的に書くようにしています。本というものは今の時代にあっても全く色あせない情報端末で、時と場所を選ばずにアクセスでき、また読み返す毎に捉え方、感想が変わるものです。だから、読後の記録は短くても残しておくのがよい。後年読み直して、ああそんな風に考えていた時期もあったなあとか、楽しいのです。
 最近ふと考えるのです。人生の残り時間で、果たしてあと何冊の本を読むことが出来るであろうか。内容を理解するだけの知力が80歳でも残っていると仮定すると、あと30年です。無理のないところで年間100冊として、3000冊。1年間に刊行される書籍数はおそらく万単位でしょうから、3000冊というのがいかに微々たる数かということが分かると思います。となると、これから中年期以降の読書は乱読ではいけない。何か一本筋の通った読み方をしなくてはいけないといつも思うのですが、相も変わらず興味は定まらず、今しばらくは乱読から逃れられそうにはありません。
 

院長の本棚16:「明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげなさい」   樋野 興夫 著

病を得て悩める人たちへ贈る言葉の処方箋。副作用もなく、効果は抜群。でも簡単なことではない。一人ひとりに合った処方はそれぞれ異なるはずで、多くの人が訪れる「がん哲学外来」を続けていくためには、たくさんの言葉を心の引き出しに持っていなければ到底出来ないはず。それらの言葉は著者が愛読している新渡戸稲造や内村鑑三らの書籍から得たとの記述に納得。やはり読書が大切だということだ。それにつけても、解剖学者などの基礎医学者には文章が上手な方が多い。古くは森於寃、そして養老孟司。解剖学や病理学を生業にして「死」と向き合うと、思索が深まるのかな。

 「先生、私は一体いつまで生きるんだろうね?いくら待ってもお迎えが来ない。」もちろん色々な表現があるが、大意はこのようなため息というか呟きを結構な頻度で聞かされる。「うん、そうだね。こればかりは天が決めることだからねえ。でもね、生きたくても生きられなかった人は沢山いるのね。だから長生きの人は感謝しつつ、その人たちの分も生きなくてはね。」これまた判で押したように同じことを繰り返す小生。いつも、もっと何か心に残る言葉を返して差し上げたいとおもっているのだが、非才にして叶わない。そんな中で出会ったこの本はとても優しく小生の心に語り掛けてくれた。

 人はいつか必ず死を迎える。そんなことはもとより皆さん分かってはいるけれども、なんとなく漠然と普通に明日はまた来ると、さしたる根拠も無くおもっている。癌を代表とする難病の宣告は、そのように今まで漠としていた自分の死を否が応でも考えさせる大きな出来事だ。でも死を考えることはつまり生きるということが何なのかを考えることと同義であって、きっといつまでも先送りするべきではない、とても大切なことなのだ。医師として、いやその前に一人の人間として生や死をどのように捉えるべきなのか、如何に生き、死を迎えるべきなのか、まだ自分なりの結論が出せずにいる。それでも、著者同様に先人の残した書を心のよすがとして思索を深めることが出来たら素敵だなとおもっている。

 今まで死は無縁の存在に思えた。時に意識することもあるにはあったが、それは喩えれば遥か後方から追いかけてくるランナーみたいなもの。今のところ十分なリードを得ているし、追いつかれる心配はない。だけどその正体がよく見えないから、般若のような、決死の形相をして迫ってくる姿を勝手に想像して恐怖感を抱く。でも五十路を迎えてだいぶ様相が変わってきた。今でははっきりと彼の姿が見える。まだ周回遅れかもしれないが、さして苦しみの表情も浮かべずに淡々と走っている彼をはっきりと見ることができる。ああ、やっぱりいつかは君に追いつかれ、抜かれるのだね。その時に「やあ、ついに追いつかれちゃったなあ。ナイスラン!」と明るくさばさばとエールを送ることが出来るようになりたい。そのためにはたくさん本を読んで、思索を深めておかないとね。